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カテゴリー「旅日記~縁の地巡り編~」の記事一覧
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H11.3.22
緒川銘菓「風車の弥七」を求めてやってきました。
地元のお茶を使い、村おこし事業として作ったお菓子だそうです。
なかなかおいしい!


▲緒川村銘菓「風車の弥七」
皮の中に抹茶、中はきみあん。
ばら売りだと一個80円。
そのまんまのネーミングがいいですね。
 

 ▲「黄門最中」
ばら売りで一個80円。
中身はゆずあんで、とても綺麗なうぐいす色。
そんなに甘くないです。
自然の甘味でこれまたおいしかった。


▲最強コンビですね^^;
左が「風車の弥七」で右が「黄門最中」。


▲風車の弥七、中身は…
中はほんのり桃色。

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 お菓子処ふるさわ
那珂郡緒川村上小瀬2101-1
http://www.e-daifuku.com/
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H11.3.22
 
昨夜の車中泊は寒さ対策も完璧。
八百屋で新聞紙を貰い、身体中に巻付けて就寝。
翌朝は快晴、気分は爽快!
 
本日のメインイベント。
「水戸黄門」に登場する風車の弥七のモデルとなった、「松之草小八兵衛」とその妻「お新」の墓を訪ねます。
 
緒川村を走っていると、至る所で風車が目に付きました。
春のさわやかな風に吹かれてクルクルクルクル回っていました・・・。

▲お新の墓

▲弥七の墓

▲お墓の側にあった立て札
弥七の墓に、「水戸黄門ゆかりの里」と題した小冊子(小冊子と言ってもB4サイズの紙を二つ折りしたもの)が置いてあり、自由に持ち帰っていい形式になっておりました。下の文章は、その小冊子から写したものです。(※緒川村の許可を得て転載しております)
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風車の弥七の墓
「水戸黄門の諸国漫遊」は、義公が名君であったためにつくられた物語であるが、その中にでてくる「風車の弥七」は、実在の人物「松之草村小八兵衛」がモデルとなっている。
 
義公の御世(一六六一~一六九〇年)、常陸国松之草村(現茨城県那珂郡緒川村大字松之草)に、「松之草小八兵衛」という者がおった。この者は盗賊の頭領で、一昼夜に三十里(一二〇km)を往来し、忍びの術に於いても達人の優れた忍者であったという。後捕らえられたが、義公の尊徳をもって助命となったばかりか、一生涯二人月俸を給せられたので、その恩恵に非常に感激して、「自分の存命中は、決して御領内に盗賊は立ち入らせない」と誓ったというが、果たしてその言のとおり、彼の存在中は、水戸領内には夜盗の心配はなかった。又、小八兵衛は、領内や隣国の動静変事を探り、義公に報告する間者(隠密)として活躍したので、義公は居ながらにして、領内の変事はもとより、隣国の動静も知り得たという。 ≪中略≫
 
小八兵衛の墓が、松之草公民館の近くの山の麓にある。―帰真禅山祟心墓・元禄十一年戌寅五月二日歿―と書かれている。その傍らから、小八兵衛の女房の「お新」の墓碑ではないかと思われるものが発掘された。―●眞梅梢池春禅定尼霊位―元禄四年正月十一日歿―と書かれている。「お新」は旧那珂郡戸田村(現那珂町)から来たと言い伝えられている。≪中略≫
 
近年、緒川村は村内の史跡顕彰に力を注ぎ、地元松之草の協力を得て、墓地の整備を行い世に公にされた。
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また、お墓の近くには、水戸藩指定紙すき場跡地が。
黄門さまが水戸城内の奥女中達に紙すきをみせた所だそうです。
下記は、先ほどの小冊子に掲載されていたものです。
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義公の遺蹟
「義公が水戸城内の奥女中たちに紙すきを見せたところ」
資料によれば、寛政二年に水戸藩が藩外に売出した農産物の総額は、九万九千両余りで、その中で和紙は三万一千余両にのぼり、農産物総額の三十二%を占め、藩の財政を支える重要な産業であった。そのため光圀は、常に紙を大切に使用していたが、彼女たちは乱費に馴れ、改めようとしなかった。そこで義公は、ある年の寒中に、彼女たちを松之草(現緒川村松之草)につかわし、紙すきの苦労を見せたのである。寒中でもこの日は特に寒い日であった。しかし、紙すきの人たちは、冷たい北風に身をさらし、氷づくような寒水にはいって、手も足も真っ赤にして懸命に働いていた。このようすを侍女たちは熱心に見て帰った。そして以後、自分たちが日常使用している紙がいかに尊いものであるかを知り、たとえ一枚でも大切に使用したという。
 
この紙すき場跡は、松之草公民館の西百メートルのところにある。
 
このことは、水戸藩の学者、立原翠軒先生編「西山遺聞」や仙台藩の安積民斉先生著「民斉閑話」に書かれ、それらがよりどころとなり、明治三十三年(一九〇〇年)発行の尋常小学校用坪内雄蔵著「国語読本巻六」、大正八年(一九一九年)発行の国定教科書「尋常小学校終身書巻三」に採用されている。
 
なお、奥女中たちの松之草来訪は、小八兵衛が光圀公に進言して行われ、女中たちの案内・世話などは、小八兵衛たちがやったといわれている。
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風車の弥七の墓
水戸藩指定紙すき場跡
那珂郡緒川村松之草
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※この旅日記は、H11年3月に行ったときの記録です。本サイトの記録を、こちらのブログにまとめなおしたものとなります。現在、水戸徳川家墓所は、東日本大震災の影響で頼房公や光圀公の墓所石垣が崩れているとのこと(詳細はコメント欄に、茨城新聞の記事を掲載しています)。


 H11.3.21

この日は、助さんの住居跡→助さんの墓→水戸徳川家墓所(水戸光圀墓)と巡り、最後は瑞竜温泉黄門の湯で〆ました。

助さん住居跡
常陸太田市新宿町不老沢
助さんが住んでいたところ。建物等はなく跡地のみ。
助さんが使用したとされる深さ4mほどの井戸も残っている。


助さんの墓
常陸太田市増井町 正宗寺


 『水戸徳川家墓所
常陸太田市瑞龍町


瑞竜温泉 黄門の湯
常陸太田市瑞竜町51
http://www.koumonnoyu.jp/

瑞竜山で冷えた体を、ココで温めました。
泉質はナトリウム塩化物泉で、神経痛、打ち身、ねんざ等に効能有。すっかりリフレッシュ!!
 
温泉の玄関の所には黄門さまの像があります。
  
H11.3.21

ドラマの中でもお馴染みの「西山荘」。
勿論、ドラマの西山荘は作り物ですよね。
非常に趣のある所でした。
おどろくほど自然も豊かで、梅も綺麗に咲いていました。
入場料、大人500円。

▲いんろうシール。
思わず買ってしまった…。
とっても可愛くて使うのがもったいないくらいです。
300円ぐらいだったかな。
 
西山荘へ辿り着くまで結構距離があるのです。まず、くぬぎの丸太を柱とした「くぬぎ門」を通り抜け、谷あいの小道をドンドン登っていきます。すると山の懐に西山荘が見えてきます。
 
庭には山水を引いて作った滝や池、黄門さま自らが植えた梅等が。この日は小雨がぱらぱら降っており、うっすらと霧に囲まれた西山荘はなんともいえない幽玄さを醸し出していました。


  
▲受付で売ってた印籠
 
いくらぐらいだったかな? 1500円ぐらいだったような…。
プラスチック製。蓋を開けると中は空洞。
さすがに薬は入れてません^^; 
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西山荘
常陸太田市新宿町590
http://tokugawa.gr.jp/seizansou_info.htm
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 H11.3.21

水戸市内に何体もある像。色々巡ってきました。
写真が少なくて申し訳ないです。

水戸黄門・助さん・格さん像
JP水戸駅前にあります。
これは有名ですね。


徳川光圀公像
水戸市千波町 千波湖西端
黄門さま一人、堂々と立っておられる像です。


水戸黄門諸国漫遊旅姿像
茨城県水戸市松本町13-19  桂岸寺
趣のある場所です。黄門様も珍しく、座り姿の像。
敷地内の常磐共同墓地には、「格さん」こと 安積澹泊(あさかたんぱく)の墓もあります。
  
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